【弁護士解説】5億円不正送金事件。「出し子」が防犯カメラに映っていたのに【無罪】になった理由

無罪×裁判

約5億3000万円という巨額の不正送金事件が絡む中、他人のキャッシュカードでATMから300万円を引き出した外国人の被告人が、なぜ「窃盗罪」で無罪となったのか。刑事裁判における「故意(わざとやったという認識)」の立証の難しさが浮き彫りになった事例です。

事件名窃盗被疑事件
裁判所山形地方裁判所
裁判年月日令和8年3月24日
求刑懲役3年
結果無罪

【事件の概要】巨額不正送金と「出し子」の逮捕

  • 背景にある大事件: 令和7年3月10日の朝、山形県内の企業の口座から合計約5億3590万円が不正に送金される事件が発生しました 。
  • 被告人の行動: その直後、不正送金された資金の一部(計300万円)が振り分けられた3枚の他人名義のキャッシュカードを使い、被告人が大阪市内の別々のATMから現金を引き出しました 。
  • 起訴内容: 検察は、被告人が不正に入手した他人名義のカードを使って現金を盗んだとして「窃盗罪(氏名不詳者らとの共謀)」で起訴しました 。

客観的な事実だけを見れば、被告人は完全に詐欺・マネーロンダリンググループの「出し子(現金引き出し役)」です。現金を引き出した事実そのものについては、防犯カメラ等の証拠もあり、争いはありませんでした

検察が「犯罪の認識(故意)があった証拠だ」と主張した客観的事実に対し、裁判所がそれをどう評価して無罪(故意なし)に導いたのかを対比させています。

事件の事実関係

日時発生した出来事・事実関係裁判所の評価・法的判断
令和6年11月〜
令和7年2月頃
被告人は知人AからATMでの現金引き出しを依頼され、少なくとも10回程度応じていた 。本件で使用したカードもAから受け取ったものである 多数の依頼者から両替を頼まれているというAの説明を受けており、名義人に特段の注意を払わなかったという被告人の弁解を不自然ではないと評価した
令和7年3月10日
午前9時27分〜10時19分
山形県の企業から約5億3590万円が不正送金された 。その後、その一部である合計300万円が本件のカード①〜③の口座に振り分けられて送金された 本件各カードは詐欺等の犯罪のために作成され、使用されたものであると客観的に認定された
同日
午前10時23分〜10時32分
被告人はAから電話で指示を受け、大阪市内の3か所の別々のATMで、各カードを用いて現金合計300万円を引き出した 口座への入金からわずか数分後に行われ、別々のATMを用いたことは発覚を免れるためとも解される 。しかし、Aからの指示に速やかに従った結果という被告人の弁解とも整合すると判断された
引き出し後被告人は、ATMから現金を引き出したことに対する謝礼として、Aから1回あたり5000円、合計1万5000円の支払いを受けた 高額ではあるものの、本邦に住むベトナム人のために両替をしていたAの依頼という被告人の弁解と整合しないほどの高額ではないと評価された
令和7年3月13日
午前10時51分頃
被告人がカード名義人の知人に対し、「使っていない、落としたと言ってください」という趣旨のメッセージを送信した 虚偽の回答を促すものとも捉えられるが、その趣旨は明らかではないとされた 。これだけで被告人がカードを不正に入手した認識(窃盗の故意)があったことを示すものとはいえないと判断された

【最大の争点】被告人は「犯罪だ」と知っていたか?

刑事裁判で有罪にするためには、客観的な行為だけでなく、「窃盗の故意(他人の物を不法に手に入れるという犯罪の認識)」が必要です

法廷では、この「故意」があったかどうかが真っ向から対立しました。

検察の主張(有罪ストーリー)

  • 使ったカードは短期間に入出金を繰り返す不審な口座のものであり、不正なカードであることは分かっていたはずだ 。
  • 口座に入金された直後(6分〜13分後)に速やかに、しかも別々のATMを使って引き出しており、行動が怪しすぎる 。
  • 引き出しの報酬として1回5000円(計1万5000円)を受け取っており、犯罪の認識があったことは明らかである 。

被告人・弁護側の主張(無罪ストーリー)

  • 知人のベトナム人「A」から、「日本に住むベトナム人のために、日本円をベトナムドンに両替する業務(地下銀行的な送金)」を頼まれただけだ 。
  • 多忙なAの代わりに指示通りに現金を引き出しただけで、正当な依頼に基づく引き出しだと思っており、窃盗の認識(故意)は全くなかった 。
争点・客観的事実検察官の主張(有罪ストーリー)被告人・弁護側の主張(無罪ストーリー)
全体的な主張
(窃盗の故意・共謀)
客観的な状況から、不正に入手したカードを使用したことは明らか。窃盗の故意があり、詐欺グループ(氏名不詳者)との共謀も認められる。日本に住むベトナム人のために両替業(地下送金)をしている知人「A」に頼まれ、正当な引き出しだと思っていた。窃盗の故意も共謀もない。
他人名義のカードを
使用したこと
他人のカードで引き出すこと自体が不審。不正なカードであることは分かっていたはずだ。Aから「多数のベトナム人から依頼を受けている」と説明されており、裏面に書かれた暗証番号で区別していたため、名義には注意を払わなかった。
入金直後に別々のATMで
引き出した不審な行動
入金からわずか6分〜13分後に速やかに、しかも発覚を免れるためにわざわざ別々のATMを使って引き出しており、プロの出し子の行動である。多忙なAから電話で指示を受け、「できるだけ早く下ろすように」と言われていたため、その指示に従って速やかに引き出しただけである。
1万5000円の報酬わずか数分のATM引き出し作業に対する報酬としては高額であり、やましい犯罪の報酬であることの裏付けである。Aに代わって引き出し作業を手伝ったことに対する「正当な謝礼(1回5000円)」として受け取ったものであり、異常な高額ではない。
事後の口裏合わせ
(メッセージ送信)
カード名義人に対し、「使っていない、落としたと言って」と虚偽の回答を促すメッセージを送っており、不正入手の認識があった証拠である。(※裁判所の評価:虚偽の回答を促すようにも捉えられるが、趣旨が不明確であり、不正入手の認識があったとまでは断定できない)
指示役「A」の素性被告人が「A」のフルネームなど素性を明らかにしないのは、真に無罪の者がとる態度ではない(隠ぺいしている)。以前からの知人であるAが追及されることを望まないということもあり得る。(※裁判所の評価:供述拒否権の観点からも検察のこの主張は採用できない)

【判決のポイント】なぜ「無罪」になったのか?

刑事裁判において、人の心の中にある「故意(わざとやった、犯罪だと知っていたという認識)」を証明することは最も困難な作業の一つです。
被疑者が「知らなかった」と否認している場合、検察官は「客観的な情況証拠(間接事実)」をジグソーパズルのように組み合わせて、外堀を埋めることで故意を立証します。

心の中を暴く!刑事裁判における「故意」の立証方法(情況証拠の分類)

立証の視点(情況証拠)具体的な着眼点(何を証明しようとするか)今回の出し子事件での具体例(検察の主張)
1. 犯行の態様
(客観的な行動の異常性)
一般の人が正当な目的で行うには「不自然すぎる行動」をとっていないか。・口座への入金直後(数分後)に速やかに引き出している
・わざわざ別々のATMを回って引き出している
2. 報酬・対価の異常性その労力に対して、正当なビジネスやお手伝いではあり得ないほど「高額な報酬」を受け取っていないか。・わずか数分のATM操作に対して、1回5000円(計1万5000円)という高額な報酬を受け取っている
3. 事前の準備・知識犯罪に使う道具を用意したり、犯罪であることを窺わせる不審な事情を事前に認識していなかったか。・金融機関が禁じている「他人名義のカード」であることを認識した上で預かっている
4. 犯行後の行動
(隠ぺい工作)
逃走、証拠隠滅、関係者との口裏合わせなど、やましいことがある人間特有の行動(犯行後の情状)をとっていないか。・事件後、カード名義人に対して「使っていない、落としたと言って」と虚偽の回答を促すメッセージを送っている
5. 本人の属性と経験則本人の年齢、職業、社会経験などに照らして、「常識的に考えて犯罪だと気づくはずだ」と言えるか。(※本件では逆に弁護側が「日本語を解さない外国人であり、日本の詐欺手口を知らない」と主張し、故意を否定する要素として機能しました)

裁判所が「故意がない」と判断した3つの理由

裁判所は、結論として「被告人の『正当な両替業務の手伝いだと思っていた』という弁解をウソだと断定しきれない」として、無罪を言い渡しました 。その主な理由は以下の3つです。

1. 「不正なカード」という認識の証明不足

被告人が知人の口座開設に同行したり、SNSでカードの写真を受け取ったりした事実はありましたが、それだけで「犯罪用のカードだと知っていた」とまでは言えません 。金融機関への言い訳を指示するようなメッセージもありましたが、決定的な証拠にはなりませんでした

2. 「怪しい行動」も弁解と矛盾しない

「入金直後にすぐ引き出した」という行動は、一見するとプロの出し子のようですが、「多忙なAからの指示で速やかに引き出した」という被告人のストーリーでも説明がついてしまいます 。また、1万5000円という報酬も、外国人の地下送金の手伝いとしては「あり得ないほど高額」とまでは言えませんでした

3. 外国人という属性(言葉の壁)

裁判所は、被告人が日本語を解さない外国人であり、日本の「特殊詐欺」や「出し子」の手口をニュース等でよく知らなかったであろう事情も考慮しました 。他人名義のカードを渡された時点で普通なら怪しむべきですが、被告人がAの「多数の依頼者から預かっている」という説明を信じ込んだとしても、不自然とまでは言えないと判断されたのです

💡 プロの視点

💡 実務的な教訓:「故意」を巡る法廷の三者の心理と戦略

立場故意に対する基本スタンス脳内の心理・思考回路(ホンネ)裁判での狙い・戦略(タテマエ)
検察官
(有罪を狙う)
「常識的に考えて、気づかないはずがない」「こんな怪しい状況で『知らなかった』なんて言い訳が通るわけがない!客観的な事実を並べれば、誰がどう見てもクロ(故意あり)だと分かるはずだ。」客観的な情況証拠(不自然な行動、高額な報酬、事後の隠ぺい等)をパズルのように組み合わせ、**「被告人の弁解は常識(経験則)に照らして絶対にあり得ない」**と裁判官を説得する。
弁護人
(無罪を狙う)
「被告人の主観では、正当な行為だと思っていた」「確かに客観的に見れば怪しいが、この被告人の生い立ちや知識レベル(例:外国人、無知)なら、騙されて本気で信じ込んでいた可能性がある。完璧な証明などされていない!」検察のパズルの一部を崩し、**「別のストーリー(例:地下銀行の手伝いだと思っていた)も十分にあり得る」**という仮説を提示して、裁判官の心に「合理的な疑い」を生じさせる。
裁判所
(裁く者)
「『疑わしきは被告人の利益に』の原則に従う」「怪しいとは思う。しかし、万が一にも『本当に知らずに利用されただけ』の人間を有罪(冤罪)にするわけにはいかない。検察の立証には、まだ説明のつかない穴があるのではないか?」双方の主張を天秤にかけ、検察の証拠から**「被告人が犯罪だと気づいていたことが『間違いなく(常識的に他の可能性が考えられないほどに)』証明されたか」**を極めて厳格に審査する。

今回の山形地裁の「出し子」事件は、まさに弁護側が「外国人コミュニティの地下送金」というリアルな別ストーリーを提示し、裁判官の「確かにその可能性もゼロではない(合理的な疑いが残る)」という心理を引き出した、見事な心理戦の結果と言えます。

この判決は、検察側の「常識的に考えて、こんな怪しい頼み事をされたら犯罪だと分かるはずだ(だから故意がある)」という推測だけでは、刑事裁判では勝てないということを示しています。

「騙されて利用されただけ(ただの運び屋・お使いだと思っていた)」という被告人の言い分(ストーリー)を、客観的な証拠によって「完全にあり得ない(不合理である)」と潰しきれなければ、「疑わしきは被告人の利益に」の原則により無罪となるのです。

特に、言葉や文化の壁がある外国人事件においては、「日本の一般的な常識」がそのまま通用しないと判断されるケースがあり、検察にとって立証のハードルが非常に高くなることを象徴する判決と言えます。

【故意の立証】先進諸国との比較

日本の刑法はドイツ法を基礎としているため「故意(わざと)」や「過失(不注意)」といった「主観的要件」を非常に厳密に区別・要求するという特徴があります。さらに、日本の刑事裁判特有の「精密司法(少しでも疑いがあれば起訴しない、無罪にする)」の文化が相まって、検察官の立証ハードルは世界的に見ても極めて高いと言えます。

では、他の先進諸国(英米法系・大陸法系)の実態はどうなっているのか。各国の法体系における「主観的要件(故意)の捉え方」と「立証のハードル」を表にまとめました。

【図解】先進諸国における「故意」の立証ハードルと実務の比較

国・法体系主観的要件(故意など)の特徴故意の立証ハードルと実務の実態(検察の負担)
日本
(大陸法系ベース・精密司法)
ドイツ法の影響を強く受け、故意と過失を厳格に区別する。心の内の「認識」と「認容」を精密に理論化。【極めて高い】
職業裁判官が緻密な論理で証拠を評価するため、少しでも合理的な疑い(別のストーリー)が残れば無罪になる。そのため、検察は「100%勝てる(故意が立証できる)」完璧な証拠や自白が揃わない限り起訴を避ける傾向がある(起訴便宜主義)。
アメリカ・イギリス
(英米法系・コモンロー)
「Mens rea(犯意)」として、目的・認識・無謀・過失など階層的に分類。また、**「厳格責任(故意がなくても処罰される犯罪)」**の範囲が比較的広い。【中〜低(実務上)】
一般市民である陪審員が「常識的に考えてわざとだろう」と推認するため、日本ほど精緻な論理的証明を求められないことが多い。さらに、**「司法取引(有罪を認める代わりに減刑)」**で決着する事件が約9割を占めるため、法廷で故意の有無が厳格に争われること自体が少ない。
ドイツ
(大陸法系・日本のモデル)
日本の刑法理論の生みの親。「未必の故意(かもしれないが、それでもいい)」と「認識ある過失」の区別など、世界で最も精緻な理論体系を持つ。【高い】
日本と同様に職業裁判官が緻密な法解釈を行うため、立証のハードルは高い。ただし、日本ほど「起訴した以上は絶対に有罪にしなければならない(有罪率99.9%)」というプレッシャーは弱く、日本よりは起訴へのハードルが幾分柔軟とされる。
フランス
(大陸法系)
重罪や軽罪では「意図(故意)」が必要とされるが、客観的な違反行為があれば、主観的な過失が推定されるような枠組み(違警罪など)も存在する。【高い〜中】
予審判事(捜査を行う裁判官)という独自の制度があり、客観的な事実関係の調査が強力に行われる。状況証拠から故意を認定するプロセスがシステムとして確立されている。

なぜ日本のハードルは特別高く感じるのか?

法律の条文(刑法理論)だけで言えば、日本とドイツは非常に似ています。しかし、日本で検察官の「故意の証明ハードル」が異常に高く見えるのは、以下の理由が組み合わさっているためです。

  1. 「司法取引」の不在(※一部犯罪を除く):アメリカでは、故意を否認して争うと刑が重くなるリスクがあるため、被告人が自ら故意を認めて取引に応じるのが日常です。日本では原則として法廷で真っ向から立証しなければなりません。
  2. 「精密司法」と有罪率99.9%のプレッシャー:日本の検察は、一度起訴して無罪になると組織的な大失態とされるため、裁判官が少しでも「故意がないかもしれない」と疑う余地がある事件(灰色の事件)は、そもそも不起訴にしてしまいます。法廷に出てくるのは「極限まで故意の証拠を固めた事件」だけになるため、必然的に立証基準が異常な高さに設定されています。
  3. 陪審員制度と裁判員制度の違い:英米の陪審員は「有罪・無罪」を市民だけで決めますが、日本の裁判員裁判はプロの裁判官と一緒に議論するため、どうしてもプロの「厳格な法的論理(精密な故意の認定)」に引っ張られやすい傾向があります。

このように比較してみると、日本の「自白を重視する捜査」や「情況証拠をパズルのように組み上げる法廷戦術」は、この高すぎる故意のハードルを越えるための苦肉の策として発達してきた側面があることがわかります。

監修/執筆
弁護士町田北斗

弁護士 町田北斗(東京弁護士会所属):YouTubeチャンネル「刑事裁判を科学する」運営
日々法廷に立つ現役の弁護士。法律の専門家としての知見を活かし、難解な刑事手続きや民事との違い、裁判官の思考回路などを一般向けに分かりやすく解説する「教養エンタメ」コンテンツを発信中。読者・視聴者の知的好奇心を刺激し、法学の面白さを広めることをライフワークとしている。

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