患者が白内障手術の後に失明してしまった痛ましい事件ですが、法廷で最大の焦点となったのは「医師によるカルテの改ざん」でした。密室である診察室や手術室で起きた出来事について、裁判官はどのようにして「カルテが後から書き換えられた」と見破ったのでしょうか?
| 事件名 | 損害賠償請求事件 |
|---|---|
| 裁判所 | 東京地方裁判所 |
| 裁判年月日 | 令和3年4月30日 |
1. 事件の概要:白内障手術と失明、そして残された疑惑
まずは、事件がどのように起きたのか、時系列で事実関係を整理します。
- 患者(原告):昭和8年生まれの男性。加齢黄斑変性と白内障の治療のため、大学病院の医療センターに通院していました。
- 第1回手術:平成25年11月14日、A医師(被告センターの主治医)により右眼の白内障手術が行われました。
- 第2回手術:同年11月21日、A医師により左眼の白内障手術が行われましたが、術中に「チン小帯(水晶体を支える組織)」が断裂し、前房出血も起きたため、眼内レンズを挿入できずに手術は中断されました。
- 第3回手術(12月26日)と失明:その後、眼圧の異常な上昇(高眼圧)などを経て、左眼のレンズ挿入等の手術が行われましたが、最終的に患者の左眼は「光覚弁なし(明暗も識別できない失明状態)」となってしまいました。
- 提訴:患者側は、A医師に「手術前の説明義務違反」や「術後の眼圧管理の過失」、さらに「カルテの改ざんと虚偽説明」があったとして、病院側(被告)に約2879万円の損害賠償を求めて提訴しました。
| 時期 | 事実関係 |
| 平成12年6月〜 | 患者(原告)が右眼の加齢黄斑変性等の治療のため、被告センター眼科への通院を開始しました。その後、両眼の白内障とも診断されました。 |
| 平成25年9月24日 | 担当医がA医師に変更となり、11月に両眼の白内障手術を実施することが予定されました。 |
| 平成25年11月14日 | **【本件手術1】**A医師により、右眼の白内障手術(眼内レンズ挿入術など)が実施されました。 |
| 平成25年11月21日 | **【本件手術2】**左眼の白内障手術が実施されました。しかし術中にチン小帯(水晶体を支える組織)が半周断裂して水晶体の核が落下し、さらに出血も生じたため、眼内レンズを挿入できないまま手術は中断・終了しました。 |
| 平成25年11月22日〜23日 | 患者が頭痛や嘔気を訴え、予定を1日延期して23日に退院しました。 |
| 平成25年11月26日 | 患者が嘔気や全身倦怠感を訴え受診しました。左眼の眼圧が異常な高値(看護記録上は56mmHg)を示したため、A医師は前房穿刺(目に針を刺して水を抜く処置)を行い、眼圧を下げました。 |
| 平成25年12月26日 | **【本件手術3】**前回挿入できなかった左眼の眼内レンズ挿入術及び硝子体手術を実施しました。 |
| 平成26年1月7日以降 | 患者の左眼は「光覚弁なし(明暗を識別できない失明状態)」となり、その後も視力は回復しませんでした。 |
| 平成29年1月6日 | 別の大学病院の医師により、「左網膜中心動脈閉塞症、左失明」と診断されました。 |
原告と被告の主張の対立
原告の主張の要旨
原告は、債務不履行又は不法行為に基づき、以下の要件に沿って損害賠償を主張しました。
- 過失(義務違反):医師は白内障手術の失明リスクや代替案等を説明する義務を怠った。また、術後の異常な高眼圧に対し、入院や点滴等による眼圧管理義務を怠った。さらに自身の過失を隠すためカルテを改ざんした(独立した不法行為)。
- 因果関係:適切なリスク説明があれば手術に同意しておらず、また眼圧管理が適切であれば左眼の失明結果は防げた高度の蓋然性がある。
- 損害:上記過失によって左眼失明の後遺障害を負い、自己決定権も侵害されたとして、慰謝料や治療費など計約2879万円の損害が生じた。
争点別:原告(患者側)と被告(病院側)の主張の対立
| 争点 | 原告(患者側)の主張 | 被告(病院側)の主張 |
| ① カルテの改ざんと虚偽説明の有無 | A医師は、自身のミスを隠すため、チン小帯(水晶体を支える組織)の脆弱性や断裂時期、術後の異常な高眼圧(56mmHgを36mmHgに書き換え)について、故意にカルテを改ざんし虚偽の説明をした。 | 改ざんは一切ない。患者は元々チン小帯が脆弱で部分断裂していた。眼圧の「56mmHg」という看護記録は転記ミスであり、実際は「36mmHg」であった。 |
| ② 手術適応の前提となる説明義務違反 | 白内障手術の失明リスクや、合併症の発生可能性、手術をせずに経過観察とする選択肢などを説明する義務があったのに、それを怠った。インフォームドコンセントがない以上、手術の適応はない。 | 手術のリスクや、チン小帯が弱い場合の手術の困難さ、合併症の可能性などについて、模型や図を用いて他の患者以上に繰り返し十分に説明した。 |
| ③ 術後の眼圧管理に関する注意義務違反 | 術後、出血に起因する高眼圧が継続していたため、入院させて頻繁に経過観察し、眼圧をコントロールする注意義務があった。しかし、嘔吐等の症状があるのに退院させるなど、管理を怠った。 | 眼圧上昇を予見して予防薬を処方し、眼圧が上昇した際には速やかに点眼薬や前房穿刺を行って眼圧を下げており、適切に対応した。退院は患者自身の希望であった。 |
| ④ 各過失と失明(結果)との因果関係 | 術中の手技で出血が生じ、高眼圧が長期間放置された結果、左眼が失明した。事前に正確なリスク説明を受けていれば、手術を受けることはなく、失明もしなかった高度の蓋然性がある。 | 失明は手術の手技が原因ではなく、患者自身が元々抱えていた素因(IFIS、緑内障、加齢黄斑変性など)が複合的に影響し、術後に眼内出血を来したことが原因である。 |
医療過誤訴訟が特殊な3つの壁(ハードル)
医療過誤訴訟には、一般的な損害賠償請求とは異なる手続き上の「3つの特殊な壁」が存在します。
① 証拠の偏在(証拠保全) カルテ等の客観的証拠は全て病院側にあります。改ざんを防ぐため、提訴前に裁判官を伴って病院へ赴き、記録を確保する「証拠保全」手続きが頻繁に利用されます。
② 高度な専門性(鑑定と専門部) 裁判官も医学の素人であるため、第三者の医師に意見を求める「鑑定」が勝敗を大きく左右します。また、都市部の裁判所では医療事件を専門に扱う「医療集中部」で集中的に審理されます。
③ 医療水準の立証 単なる「ミス」ではなく、当時の「臨床医学における医療水準」から逸脱していたかを、膨大な医学文献等を用いて緻密に立証する責任が患者側に課されます。
- 申立て: 当事者が鑑定事項(質問内容)をまとめ、裁判所に申し立てる
- 選任: 裁判所が採用を決定し、専門医等を鑑定人として選任する
- 報告: 鑑定人がカルテ等を精査し、鑑定書を作成・提出する
- 費用: 数十万円から100万円前後と非常に高額になることが多く、原則として鑑定を申し立てた側が事前に裁判所へ「予納」する必要があります。
📊 医療過誤裁判における「7つの最重要証拠」
| 証拠の種類 | 誰が作成するか | いつ作成されるか | 裁判における法的役割 |
| 1. 医師の診療録(カルテ) | 担当医師(主治医、当直医など) | 診察、回診、処置の実施後(原則として遅滞なく) | 医師の「思考プロセス」と「判断の根拠」を示す絶対的な土台。 |
| 2. 看護記録(フローシート) | 担当看護師 | 日々の業務中、バイタル測定時、患者の訴え時(リアルタイムに近い) | 患者の生々しい訴えや、分単位のバイタル変化を示す「病棟のリアル」。 |
| 3. 手術記録・麻酔記録 | 執刀医(または助手)、麻酔科医 | 手術・麻酔の終了後(速やかに) | オペ室という密室での手技と、患者の生命維持の推移を示すデータ。 |
| 4. 画像・血液検査データ | 検査機器システム、放射線技師、臨床検査技師、読影医 | 検査実施時、および読影医による画像診断時 | 誰の目にも明らかな「客観的ファクト(事実)」。 |
| 5. ガイドライン・医学文献 | 各専門医学会、医療機関、研究者 | 数年ごとの改訂時(※裁判では「当時の水準」が問われる) | 「臨床医学の医療水準」を確定し、過失判定の基準となる絶対的な定規。 |
| 6. 同意書・説明書 | 担当医師(説明・作成)、患者または家族(署名・同意) | 手術、侵襲的検査、重要治療の実施「前」 | 医師の説明義務履行と、患者の自己決定権を証明する書面。 |
| 7. 医学鑑定書 | 裁判所が指定した第三者の専門医、または当事者が依頼した私的鑑定医 | 訴訟の審理中(鑑定嘱託時)、または提訴前 | 裁判官(素人)の判断を決定づける、第三者の専門医による意見書。 |
裁判所のジャッジメント
裁判所は、医師による①手術前の説明義務違反と②カルテの改ざんという2つの不法行為を明確に認定し、病院側に対し合計約963万円の損害賠償を命じました。
| 争点 | 証拠の状況・当事者の主張 | 裁判所の事実認定(判断のロジック) |
| ① チン小帯(水晶体を支える組織)に関するカルテ改ざん | 【医師の主張】「元々チン小帯が弱く断裂していたとカルテに記載した」と主張。 **【証拠(手術記録)】手術中にリアルタイムで作成される「手術記録」には、脆弱性や事前断裂の記載は一切なく、術中に断裂したと記載されていた。 【証拠(カルテ)】**枠外にはみ出したり、後から挿入されたりした不自然な書き込みがあった。 | 【認定】カルテの改ざんあり 手術記録は経時的・客観的であり信用性が高いとした。これと矛盾し、体裁も不自然なカルテの記載は、医師が自己の責任を逃れるために事実と異なる内容を意図的に追記したもの(改ざん)であると厳しく認定した。 |
| ② 術後の異常な「眼圧数値」のカルテ改ざん | 【医師の主張】「眼圧は36mmHgだった。「3」を「5」と誤読されないようになぞっただけ」と弁明。 **【証拠(看護記録等)】看護記録には「56mmHg」と2箇所に明記されていた。 【証拠(患者の症状)】**患者は嘔吐などの激しい症状を訴えており、これは眼圧50mmHg以上の医学的知見と完全に一致していた。 | 【認定】カルテの改ざんあり 客観的な看護記録や患者の重篤な症状と合致しない医師の弁解は「不合理」であると排斥した。医師が事後的に「56mmHg」を「36mmHg」に書き換えた改ざんであると認定した。 |
| ③ 手術適応の前提となる説明義務違反 | 【医師の主張】「合併症や失明のリスクについて、図を用いて繰り返し十分に説明した」と証言し、カルテにもその旨の記載があった。 【患者の主張】「一切説明を受けていない」と証言。 | 【認定】説明は行われていない(義務違反) 医師の証言に沿うカルテの記載があるものの、そもそも「①のカルテ改ざん」が認められた以上、カルテ自体の信用性が極めて低いと判断した。他に医師の証言を裏付ける証拠もなく、十分なリスク説明は行われていないと認定した。 |
| ④ 説明義務違反と失明(結果)の因果関係 | **【事実】**本件の手術は難易度が高く、合併症発生確率が10%程度あり、かつ水晶体落下リスクが50%ある等、危険性が高いものであった。 | 【認定】因果関係あり もし事前に「効果は限定的である一方、多数回の手術や失明等の高いリスクがある」という正確な説明を受けていれば、患者は手術に同意しなかったと認定した。手術がなければ失明もなかったとして、過失と結果の因果関係を肯定した。 |
2. 法廷の攻防①:なぜ「カルテ改ざん」はバレたのか?
この裁判で最も注目すべきは、A医師による「カルテの改ざん」が明確に認定された点です。医師側は「患者は元々チン小帯が弱く、手術が難しいことは事前に説明していた」「カルテの記載も適正である」と主張しましたが、裁判所は以下のロジックでこれを嘘だと見破りました。
【証拠の矛盾:手術記録 vs 後日書かれたカルテ】
- 病院では、手術中に起きたことや合併症をありのままに記録する「手術記録」が作成されます。これは経過を客観的に記録したものであり、非常に信用性が高い証拠です。
- A医師は後日カルテに「右眼のチン小帯が元々弱かった」と追記しましたが、最も重要な「手術記録」にはそのような記載が一切ありませんでした。
- さらに左眼についても、手術記録には「術中にチン小帯が断裂した」と書かれているのに、カルテには枠外にはみ出すような不自然な体裁で「もともと断裂していた」と書き加えられていました。
【眼圧数値の上書き】
- 術後、患者が嘔吐などの激しい症状を訴えた日、看護記録には眼圧「56mmHg(異常な高値)」と2箇所に記載されていました。
- しかし、A医師のカルテでは「36mmHg」となっており、「3」の文字が上から不自然になぞられていました。裁判所は、患者の重篤な症状とも符合することから、A医師が事後的に「56」を「36」に書き換えたと認定しました。
裁判所は、「手術記録との明らかな矛盾」と「カルテへの不自然な書き込み(挿入や上書き)」という客観的な痕跡から、改ざんの事実を科学的に認定したのです。
「誰が・いつ・どのような手順で・何を発見し・どう処置したか」を記す医療の公式文書
- 記載事項: 術式、執刀医と助手、麻酔法、出血量、切開から縫合までの全プロセス、使用した器具、そして術中の異常事態(予期せぬ出血や神経損傷など)が詳細に記載されます。
- 作成目的: 最大の目的は「術後の安全な患者管理(チーム医療での情報共有)」です。また、医師法に基づき作成と保存(原則5年)が義務付けられています。
- 提出先: 通常は外部へ提出せず「院内のカルテ(電子カルテ)」内に厳重に保管されます。診療報酬請求の根拠となるほか、医療訴訟の際には「法廷」へ提出され、勝敗を決する最大の客観的証拠となります。
3. 法廷の攻防②:説明義務違反と失明の「因果関係」
医療過誤訴訟では、「医師のミス(過失)」と「患者の損害」の間に結びつき(因果関係)があるかどうかが厳しく問われます。
【説明義務違反の認定】
- 白内障手術は絶対に必要なものではなく、メリットとデメリット(失明のリスクなど)を比較して患者自身が決定するものです。
- A医師は「リスクは十分に説明した」と主張し、カルテにもそのように記載していました。しかし、前述の通り「カルテ自体が改ざんされていて信用できない」と判断されたため、A医師の主張は退けられ、説明義務違反(インフォームドコンセントの欠如)が認定されました。
【失明との因果関係】
- 裁判所は、「もしA医師が事前に『合併症の発生確率が10%程度あり、最悪失明するリスクがある一方で、手術しなくても急激な視力低下は起きない』という正確な情報を伝えていれば、患者は手術に同意しなかったはずだ」と論理付けました。
- つまり、「説明義務違反がなければ手術は行われず、手術が行われなければ失明もしなかった」として、医師の過失と失明という結果の間の因果関係を肯定したのです。
実務コラム
この裁判例が示すのは、法廷においては「言った・言わない」の口頭の主張よりも、「客観的な記録(手術記録や看護記録)との整合性」や「書面の不自然な痕跡」が極めて強力な証拠になるという事実です。 自己保身のためのカルテ改ざんは、結果的に医師自身の信用を完全に失墜させ、高額な賠償責任へと直結することになります。民事・刑事を問わず、裁判において「証拠の矛盾」がいかにして暴かれるのかを示す、非常に興味深い事例と言えるでしょう。
医師が賠償責任を負わないためにできたこと
今回の事例で医師が法的責任を回避するには、「異常の有無を確認したという事実」を手術記録に明確に言語化することが絶対条件でした。
法廷では「記録がない=その処置や確認を行っていない」と冷酷に推定されます。したがって、手術中に周囲の臓器や神経への接近があった場合、単に気を付けて処置するだけでなく、「〇〇神経を視認し、損傷がないことを確認しつつ剥離した」といった具体的な防衛のプロセスを文字として刻み込む必要がありました。
結果的に合併症が起きたとしても、この「事前予測と確認の事実」が記録されていれば、裁判官は「医療水準を満たした上での不可抗力」と判断し、賠償責任を免れることができたのです。


