会社の一部を1500万円で買い取って独立した元役員(原告)に対し、売ったはずの会社(被告)がわずか1年後に「同じ関東エリアで似たような事業を再開する」という宣戦布告を行いました。事業を売った側には、ライバルにならないための「競業避止義務」がありますが、被告は「ウチが始めた事業は、売った事業とは別物だからセーフ!」と主張しました。
果たして裁判所は、この「屁理屈」とも思える主張を認めたのでしょうか? 契約書の恐ろしさと、法廷での判断基準を分かりやすく解説します。
| 事件名 | 損害賠償請求事件 |
|---|---|
| 裁判所 | 東京地方裁判所 |
| 裁判年月日 | 令和3年1月8日 |
| 判決 | 棄却判決 原告敗訴 |
事件の概要:のれん分け直後の「裏切り」?
- 原告(買った側): 被告会社の元役員が設立した新会社。平成29年2月、被告から「関東事業部」の事業を1500万円で買い取り(事業譲渡)、独立しました。
- 被告(売った側): 北海道に本社を置く食品機械メーカー。
事業譲渡の際、契約書には「被告は10年間、原告の事業と競合する同種の事業を行わない(競業避止義務)」と明記されていました。 ところが平成30年7月、被告は関東地方に「関東産機事業部」という新しい事務所を立ち上げ、食品用機械の販売などの営業を再開してしまったのです。
激怒した原告は、「約束違反(競業避止義務違反)だ! 営業を直ちにやめろ! 損害賠償300万円を払え!」と裁判を起こしました。
【図解】事件の経緯:1500万円の事業売却から「裏切り」までのタイムライン
| 時期 | 基本的な経緯・事実関係 |
| 登場人物 | ・原告(買った側): 被告の元取締役が独立して設立した新会社。 ・被告(売った側): 北海道に本社を置く食品機械メーカー。 |
| 平成6年(1994年) | 被告が設立され、埼玉県所沢市に「関東事業部」を開設し関東進出。 |
| 平成23年(2011年)11月 | 被告が、所沢事務所内に別部署として「関東産機事業部」を開設する。 |
| 平成27年(2015年) | 「関東産機事業部」の責任者が退職。以降、同部署は事実上の休止状態となり、業務は旧関東事業部が引き継ぐ。 |
| 平成28年(2016年)12月 | 被告の取締役(当時)が、独立して原告会社を設立する。 |
| 平成29年(2017年)2月 【本件事業譲渡】 | 原告と被告の間で事業譲渡が成立。原告が1500万円で被告の「関東事業部」を買い取る。 契約書には**「被告は10年間、原告と競合する事業を行わない(競業避止義務)」**と明記された。 |
| 平成30年(2018年)6月・7月 【被告の営業再開】 | 譲渡からわずか1年強で、被告が突然、旧顧客に「関東産機事業部再開」の案内を送付。神奈川県大和市に新事務所を構え、食品用機械の営業を再開してしまう。 |
| 提訴へ | 原告が「約束違反だ!」と営業中止を求めるも、被告は「ウチが再開したのは『産機事業部』であり、売った『旧関東事業部』とは別モノだからセーフ」と拒否し、裁判へ発展。 |
| 令和3年(2021年)1月8日 【判決】 | 東京地方裁判所は、被告の「別事業だから」という言い分を退け、明確な競業避止義務違反と認定。令和9年まで被告の関東エリアでの営業を差し止めるという原告勝訴の判決を下した。 |
原告の法的主張(法的要件に基づく整理)
原告は、以下の法的要件に基づき、競業行為の差止めと損害賠償を主張しました。
- 事業譲渡契約上の競業避止義務違反: 被告が関東地方で食品用機械の開発・販売事業を再開したことは、契約書第10条が禁じる「原告の事業と競合する同種の事業」に該当し、債務不履行である。
- 会社法上の競業避止義務違反: 契約条項の違反に該当しないと仮定しても、被告の行為は会社法21条3項に定める「同一の事業」を「不正の競争の目的」で行うものに該当する。
- 差止請求および損害賠償請求: 上記の違反に基づき、令和9年2月28日までの関東地方等での競業の差止めを求める。また、売上減少等の損害の一部として、300万円および遅延損害金を請求する。
法廷での対立:売った事業は「一部」か「全部」か?
裁判での最大の争点は、「被告が再開した事業は、原告に売った事業と『同種(ライバル)』なのか?」という点でした。
- 被告(売った側)の言い分: 「私たちが売った『旧・関東事業部』は、機械のメンテナンスや部品販売がメインの部署です。今回再開した『関東産機事業部』は、自社開発の機械を量産・販売する部署なので、やっているビジネスが違います! だから競業避止義務には違反していません!」
- 原告(買った側)の言い分: 「ふざけるな! 契約時には『関東産機事業部』は実質的に休止状態で、旧・関東事業部が全部の業務を引き継いでいた。契約書にも『被告の関東事業部を譲渡する』と書いてあり、関東エリアの食品機械ビジネス『すべて』を買い取ったはずだ!」
- 事業譲渡契約とは、会社が営む事業の「全部」または「一部」を他の会社に譲渡する契約です。
- 【メリット】会社そのものを丸ごと売買する「株式譲渡」とは異なり、買い手側が「欲しい資産、ノウハウ、顧客だけをピンポイントで選んで買える」のが最大の特徴です。例えば、「黒字の事業だけを買い、負債は引き継がない」といった柔軟な取引が可能です。
- 【デメリット】個別の資産や従業員との契約を一つずつ移転する手間がかかり、今回の事件のように「売った事業の範囲はどこまでか」「競業避止義務の対象は何か」を巡って、後々泥沼のトラブルに発展しやすい契約でもあります。
裁判所の判決:契約書は嘘をつかない!
東京地方裁判所が下した結論は、「被告の営業再開はアウト(競業避止義務違反)。関東での営業を令和9年まで差し止める! (ただし損害賠償は棄却)」というものでした。
裁判所が被告の「別事業だからセーフ」という主張を退けた理由は、非常にシンプルかつ強烈でした。
- 実態の認定: 譲渡当時、被告が主張する「関東産機事業部」は担当者不在で事実上休止しており、旧関東事業部がすべての業務を行っていた。つまり、原告は関東における食品機械の事業を「包括的」に譲り受けたのだと認定されました。
- 契約書の記載: 事業譲渡契約書には「被告の関東事業部を譲渡する」とあり、特定の資産や事業だけを被告側に残すような記載は一切ありませんでした。裁判所は「もし別の事業を残すつもりだったなら、契約書にそう書くべきだ」と判断したのです。
結果として、被告は令和9年2月まで、関東地方の企業に対して食品機械の開発や販売、メンテナンスを行うことを厳しく禁じられました。
ただし、原告が主張した「損害(売上の減少など)」については、客観的な証拠がないとして損害賠償請求は棄却されています。
【実務コラム】急増する中小M&A!地獄のトラブル5選
近年、後継者不在などを背景に中小企業のM&Aが急増していますが、同時に「こんなはずじゃなかった!」という泥沼の法的トラブルも頻発しています。実務上よく見られる致命的なトラブル5選をご紹介します。
- 簿外債務・偶発債務の発覚(隠れ借金) 買収後に、帳簿に載っていなかった「巨額の未払い残業代」や「元従業員からのパワハラ訴訟リスク」などが次々と発覚し、買い手側が深刻なダメージを負うケースです。
- 表明保証違反(事前のウソ) 売り手から事前に聞いていた財務状況、技術力、顧客データがデタラメだったパターン。買収価格の減額や損害賠償請求の泥沼裁判に発展します。
- 競業避止義務違反(売り手の裏切り) 事業を売却して大金を手にした元社長が、すぐ近くで同じビジネスを始めて顧客を奪っていくケース。契約書の「解釈」を巡って激しく争われます。
- キーマン(主力従業員)の大量離職 買収後、新しい経営陣のやり方に反発した優秀な社員が次々と辞めてしまい、事業そのものが回らなくなる悲劇です。
- 取引先の契約解除(チェンジ・オブ・コントロール) 経営者が変わった(買収された)ことを理由に、会社の売上の大部分を占める重要取引先から突然契約を打ち切られてしまうケースです。
M&Aは「買って終わり」ではなく「買ってからが本番」です。事前の徹底したデューデリジェンス(買収監査)と、抜け穴のない精緻な契約書作りを怠ると、会社ごと吹き飛ぶ大事故に繋がります!
【実務マニュアル】事業譲渡の泥沼トラブルを回避する3つの鉄則
事業譲渡は「いいとこ取り」ができる反面、契約の曖昧さが致命傷になります。以下のポイントを徹底し、リスクを遮断してください。
- 譲渡対象のリスト化: 引き継ぐ資産、負債、契約、顧客情報などを別紙等で1つ残らず特定すること。「○○事業に関する一切」といった曖昧な表現は争いの火種になります。
- 競業避止義務の厳格な設定: 売り手がすぐに同じビジネスを始めないよう、「期間・地域・禁止される事業内容」を契約書で具体的に縛ること。今回の裁判例のように「別部署の事業だから」という言い逃れを許さない精緻な条項が必要です。
- 従業員・取引先の事前同意: 事業譲渡では雇用や契約が自動で移転しません。キーマンの離職や取引停止を防ぐため、契約締結直前までには、事前の根回しと個別同意の取得を確実に行うことが必須です。
- 違約金の設定:契約違反をした場合に違約金の定めを置いておくと、損害を証明する必要がありません。今回の事例では、営業損害の金額が証明できなかったため損害賠償責任は否定されています。
M&Aの罠:営業のプロの「甘い言葉」を信じるな!
近年、中小企業M&Aの急増に伴い、強引に契約を迫る仲介業者が後を絶ちません。彼らは会社の未来を案じているのではなく、自身の「巨額の仲介手数料」を稼ぐことを目的とした純粋な営業のプロです。
「良い企業がある」「今乗らないと手遅れになる」といった甘い言葉は、彼らの常套句にすぎません。M&Aを台無しにしないためにも、巧みな営業トークを絶対に鵜呑みにせず、事業の力を見抜く目を養うしかありません。


