テレビドラマなどでは、警察官が被疑者に対して「ここだけの話、罪を認めたら少しおまけしてやるよ」「俺にはその権限がある」などと持ちかけるシーンを見かけることがあります。しかし、現実の刑事訴訟法においては、このような取り調べは「違法」です。
なぜ違法になるのか? 実際の取調室で何が起き、裁判所はそれをどう判断したのか? 判決文のリアルな言葉を交えながら、刑事裁判の仕組みを科学していきましょう。
| 事件名 | 国家賠償請求控訴事件 |
|---|---|
| 裁判所 | 福岡高等裁判所 |
| 裁判年月日 | 令和7年12月17日 |
| 結果 | 一部認容(44万円) |
1. 事件の概要:黙秘する被疑者 vs 「北署のエース」
本件は、窃盗の疑いで逮捕・勾留された被疑者Aと、その国選弁護人に選任された弁護士(出口弁護士)が、佐賀県警の警察官Bによる取り調べによって権利を侵害されたとして、国や自治体を相手に国家賠償を求めた裁判です。
- 事件の始まり:令和3年1月、控訴人(被疑者)Aが【窃盗】の被疑事実で逮捕・勾留されました。選任された国選弁護人は、Aに対して事件について黙秘するよう指示を出しました。
- 黙秘の実行:弁護人の指示に従い、被疑者Aは1月28日以降の取り調べにおいて黙秘を貫きました。
- 警察官の揺さぶり:これに対し、取り調べを担当した警察官Bは、なんと次のような言葉を投げかけ、自白を迫ったのです。
警察官Bの実際の発言(判決文より抜粋)
- 「しゃべってくれるなら(勾留延長は)10日を付けずに5日くらいでいけるかもしれん。追送致は2件くらいにして、立件もなるべくせんどこうかな。俺は北署でエースだから、ある程度の権限はある」
- 「**勇気を出してグー(自白)を出してくれ、こっちはチョキ(立件減)を出す。**俺こう見えて結構権力持ってるっちゃん。俺で決まると思え。俺が課長、係長に言えば少なくできる」
- 「早く認めないと再逮捕になって相手に迷惑になるぞ。(自白すれば)立件を少なくする。俺は北署のエースだからこんな事件を扱う暇がない」
さらに、警察官Bはこれら発言にとどまらず、被疑者Aが黙秘し続けているにもかかわらず、勝手に自白調書を作成し、署名押印を要求しました。
【時系列で見る】佐賀県警警察官「違法取り調べ」事件の全貌
| 日時・時期 | 被疑者A・弁護人の動向 | 警察官Bの言動・取り調べ内容 | 法律上の問題点(裁判所の判断) |
| 令和2年 9月〜12月 | 共犯者とされるCが工事用の信号機や締固め機等を窃取し、Aと共に換金。 | (その後、Cが逮捕され、Aの関与を供述) | ― |
| 令和3年 1月25日 | 被疑者Aが逮捕される(容疑:信号機の窃盗)。 | ― | ― |
| 1月27日 | 検察官の調べに調書上は否認し、勾留される。 ★出口弁護士が接見し、黙秘を指示。 | ― | ― |
| 1月28日 | ★Aは指示に従い黙秘を開始。 | ― | ― |
| 1月29日 | 黙秘を継続。 | 「しゃべってくれるなら5日くらいでいけるかもしれん」「俺は北署でエースだから、ある程度の権限はある」と自白を促す。 ★勝手に自白調書①を作成し署名押印を要求。 | 【違法行為①】 利益誘導による自白強要・黙秘権侵害。 |
| 1月30日 | 黙秘を継続。 | 「**勇気を出してグー(自白)を出してくれ、こっちはチョキ(立件減)を出す。**俺で決まると思え」と自白を促す。 | 【違法行為①】 同上。 |
| 1月31日 | 黙秘を継続。 ★夜、取り調べ終了を告げに来た上司に被害を訴え、上司が調書②を回収。 | 「早く認めないと再逮捕になるぞ」と自白を促す。 ★勝手に余罪を追記した自白調書②を作成し署名押印を要求。 | 【違法行為①】 同上。 |
| 2月1日〜3日 | Aが検察官に不満を述べる。 ★出口弁護士が県警等に苦情・調査を申し入れ。 | 苦情を受け、以降は自白調書への署名押印を求めなくなる。 | ― |
| 2月10日〜13日 | ― | ★Aが別の窃盗容疑で2月15日に再逮捕される方針と、再逮捕状の発付を知る。 | ― |
| 2月11日〜13日 | 黙秘を継続。 | 再逮捕を知りながら「結果は出た」「取りあえず出たら仕事をした方がいい」「釈放後は任意で呼ぶ」と完全釈放をうそぶき、調書の作成を迫る。 | 【違法行為②】 虚偽告知(だまし討ち)による黙秘権侵害。 |
| 2月15日 | 処分保留で釈放された直後、別件で再逮捕される。 | ― | ― |
| 2月16日〜22日 | Aは「だまされた」とBに抗議。 ★出口弁護士が県警・地検に再度苦情を申し入れ。 | ― | ― |
| 2月22日・24日 | ― | 弁護士からの苦情が相次ぐ中、Aに対して**「弁護人が接見でどのように述べているか」を質問・聴取する**。 | 【違法行為③】 接見内容の聴取による秘密交通権侵害。 |
| 2月26日 | ★出口弁護士が接見内容の聴取について県警・地検に強く抗議。 | ― | ― |
| 3月8日 | 処分保留となり、完全に釈放される。 | ― | ― |
【対決表】原告(被疑者&弁護人) vs 被告(警察側)の主張
原告の請求が認められる要件と訴訟提起した真意
損害賠償請求が法的に認められるには、①違法な権利侵害行為、②行為者の故意・過失、③損害の発生、④行為と損害との因果関係、という4要件を客観的証拠により証明する必要があります。
しかし、本件のような国家賠償請求を提訴した原告の真意は「金銭の獲得」そのものにあるわけではありません。
弁護士費用等(50万円超)をかけて費用倒れ(赤字)や精神的負担を覚悟してまで提訴する真の目的は、「不当な権利侵害を法廷で白黒つけさせ、公的な判例(歴史的事実)として記録に残すこと」、そして「相手方に過ちを是認させ、再発防止を迫ること」です。個人の尊厳と原則を守る戦いこそが、裁判を動かす最大の原動力なのです。
- 裁判において、原告らは「警察官による違法な取り調べで権利を侵害された」と訴えた 。
- 被告側(県・国側)は、警察官が作成した「18通の捜査報告書」を武器に、「違法な取り調べなどやっていない」「むしろ被疑者が自分から犯行をほのめかしていた」と全面否認。
| 争点・項目 | 原告(被疑者A&出口弁護士)の主張 | 被告(警察・県/国側)の反論 |
| ① 利益誘導による自白強要 (黙秘権の侵害) | 弁護人の指示に従い黙秘を貫いていた 。それにもかかわらず警察官Bから「エースの俺が立件を少なくしてやる」などの利益誘導を受け、勝手に作られた自白調書に署名押印を迫られた 。 | 利益誘導など行う必要はなかった 。 なぜならAは取調室で「1回吐いたら全部話せる」などと自分から犯行をほのめかしていたからだ 。その証拠に、Bが報告した**「捜査報告書」が18通もある** 。 |
| ② 虚偽告知による「だまし討ち」 (黙秘権の侵害) | 警察官Bは、別の窃盗容疑で再逮捕される方針や逮捕状の発付を知っていた 。にもかかわらず、「釈放後は任意で呼ぶ」などと完全な釈放をうそぶいて調書作成を迫った 。 | (一般的な全面否認) 釈放をちらつかせて騙すような違法な取り調べは行っていない。 |
| ③ 接見内容の盗み聞き (秘密交通権の侵害) | 弁護人が警察の違法取り調べに対して抗議や苦情を申し入れたところ 、警察官Bから**「弁護士が接見(面会)で何を言っているか」を執拗に質問された** 。これは弁護活動の侵害だ 。 | (一般的な全面否認) 弁護人との秘密交通権を侵害するような不当な聴取は行っていない。 |
| ④ 損害賠償請求額 (結論) | 警察の違法な取り調べにより絶大な精神的苦痛を被ったため、慰謝料等として被疑者Aに220万円、出口弁護士に110万円を支払え 。 | 請求の棄却を求める。 警察官の取り調べに違法性はないため、賠償金を発する理由はない。 |
2. 裁判所が認定した「3つの違法行為」
福岡高等裁判所は、この警察官Bの一連の取り調べについて、社会通念上相当と認められる方法や限度を逸脱しており、国家賠償法1条1項の適用上「違法」であると明確に断定しました。
裁判所が違法と認定したポイントは、大きく以下の3点に分類されます。
① 利益誘導による自白の強要(黙秘権の侵害)
- 違法な取引の持ちかけ:警察官Bは、「自白すれば立件を減らす」と誘いかけるなど、虚偽の自白を招きやすい態様で安易に自白を促しました。
- 黙秘権の無視:被疑者が黙秘していたにもかかわらず、被疑事実を明確に認める旨の自白調書への署名押印を求めました。
- 裁判所の判断:憲法31条が含意する「無罪推定の原則」に留意すべきであるにもかかわらず、一連の行為は社会通念上の限度を逸脱しており、黙秘権を侵害する違法な取り調べであると判断されました。
② 虚偽告知による「だまし討ち」(黙秘権の侵害)
- 再逮捕の事実を隠ぺい:警察官Bは、被疑者Aが別の窃盗容疑で再逮捕される方針を知っていました。遅くとも2月13日には、再逮捕状が発付されたことまで知っていたのです。
- 釈放をほのめかす嘘:それにもかかわらず、警察官Bは「15日の結果は出た」「取りあえず出たら仕事をした方がいい」「釈放後は任意で呼ぶと思う」などと、完全な釈放を繰り返し示唆しました。
- 裁判所の判断:再逮捕を知りながら完全釈放を示唆して調書の作成を迫る行為は、社会通念上相当と認められる範囲を逸脱した違法な取り調べであり、黙秘権の侵害に当たるとされました。
③ 接見内容の聴取(秘密交通権の侵害)
- 弁護士との会話を詮索:弁護人(出口弁護士)からの苦情や調査要求が相次ぐ中、警察官Bは被疑者Aに対し、「弁護人が接見(面会)でどのように述べているか」を尋ねました。
- 裁判所の判断:刑事訴訟法39条1項は、被疑者と弁護人が秘密を保って面会・相談できる「接見・秘密交通権」を定めています。弁護士と何を話したかを取り調べで聞くことは、被疑者および弁護人双方の秘密交通権を侵害する違法行為と認定されました。
3. 「取り調べの科学」:なぜ利益誘導はダメなのか?
一般の方からすると、「警察が罪を認めさせるために交渉するのって、そんなに悪いこと?」と疑問に思うかもしれません。しかし、ここには刑事裁判を科学する上で非常に重要なロジック(適正手続の保障)が存在します。
「虚偽自白」という冤罪のメカニズム
もし、警察官が「罪を認めれば罪を軽くする(釈放する)」という条件を提示することを許してしまったら、何が起きるでしょうか?
実際にやっていない無実の被疑者であっても、先の見えない拘束生活から逃れるために、「やったことにした方が得だ」と勘違いして嘘の自白(虚偽自白)をしてしまう危険性が跳ね上がります。そのため、利益を誘導して自白を得る行為は、黙秘権を脅かすだけでなく、冤罪を生む最大の要因として法律上厳格に禁止されているのです。
「秘密交通権」は防衛の命綱
また、身柄を拘束された被疑者が、国家権力(警察・検察)と対等に戦うための唯一の武器が「弁護士(弁護人)」です。
「弁護士とどんな打ち合わせをしたのか」「どんなアドバイスを受けたのか」を警察官が聞き出すことが許されれば、弁護士を頼ることはできなくなります。だからこそ、裁判所は被疑者のみならず、弁護人自身の権利侵害としても違法性を認めたのです。
秘密交通権(刑訴法39条1項)は、身柄を拘束された人が警察官等の立会いなしに弁護人と面会・書類受渡をする権利です。
‣密室での自白強要や拷問により悲惨な冤罪を生んだ暗黒の司法史への深い反省と、個人の尊厳を守る闘いの中から確立された重い歴史的価値を持ちます。
‣巨大な国家権力に対し、黙秘権や防御権を実質化する「自由と人権の最後の砦」として極めて重要です。
4. 高裁判決の結論:第一審から賠償額を大幅増額
第一審(原判決)では、被疑者Aの請求が1万1000円の限度で認められたのみで、弁護人の請求は棄却されていました。
しかし、福岡高等裁判所は第一審の判決を変更し、警察官の違法行為による損害を正面から認め、賠償額を大幅に増額しました。
| 請求者 | 第一審(原判決)での認容額 | 福岡高裁での認容額 | 内訳・理由 |
| 被疑者 A (控訴人) | 1万1,000円 | 33万円 | 黙秘権・秘密交通権の侵害による精神的苦痛(慰謝料30万円+弁護士費用3万円) |
| 弁護人 出口弁護士 (控訴人) | 棄却(0円) | 11万円 | 秘密交通権の侵害による精神的苦痛(慰謝料10万円+弁護士費用1万円) |
※被控訴人(県/国側)に対し、上記金額及びこれに対する遅延損害金の支払いを命じる判決となりました。
5. まとめ:警察の正義と裁判所の正義
なぜ違法捜査はなくならないのか?
その本質は「悪と戦う警察の正義感」にあります。「絶対に凶悪犯を逃さない」「被害者の無念を晴らす」という強い使命感が過熱するあまり、「真実という結果のためなら多少のルール違反は構わない」と、適正手続きの境界線を飛び越えてしまうのです。皮肉にも、この熱い正義感こそが違法捜査を生む最大の土壌なのです。
裁判所の正義は、憲法と法律に従って適正に物事が進められることにあります。
悪を追うあまりルールを越えがちな警察の熱い正義と、人権の最後の砦として違法捜査を冷徹に排斥する裁判所の正義。刑事法廷は、この二つの正義が衝突する場なのです。


