滋賀県所在の病院(本件病院)において平成15年(2003年)5月に生じた患者(A氏)の死亡事件につき、看護助手であった原告は殺人罪により逮捕・起訴され、懲役12年の有罪判決を受けて満期出所するまで服役しました。その後、再審により無罪判決を獲得・確定させた原告が、滋賀県(警察)と国(検察)に対して違法捜査や違法な公訴提起を理由に約5464万円の損害賠償を求めた国家賠償請求訴訟の判決が、令和7年(2025年)7月17日に大津地方裁判所で言い渡されました。
裁判所が下した結論は、「被告滋賀県に対し、約3131万円の支払いを命じる(国に対する請求は棄却)」というものでした。
なぜ警察(滋賀県警)の取調べや証拠の不送致は「違法」と断罪されたにもかかわらず、検察(国)の起訴や上訴は「合法(免責)」となったのか? 密室の取調室で何が行われ、どうやって「虚偽自白」が作られたのか? 判決文の緻密な事実認定と法的なロジックを分かりやすく“科学”していきます。
| 事件名 | 人工呼吸器取り外しによる殺人罪で服役後、再審無罪となった元看護助手による国家賠償請求事件 |
|---|---|
| 裁判所 | 大津地方裁判所 民事部 |
| 裁判年月日 | 令和7年7月17日 |
| 結果 | 一部認容(3131万円) |
事件の全貌:なぜ「自然死」が「殺人事件」に?
まず、本事件が再審無罪へと至り、警察が断罪されることになった基本的な経緯を整理します。
- 事件の発生:平成15年5月21日夜から22日早朝にかけて、本件病院に入院中で人工呼吸器(本件呼吸器)を装着されていたA氏(当時72歳)が、心肺停止状態で発見され死亡しました。当初は医療過誤(業務上過失致死)の嫌疑で捜査が始まっており、殺人事件としての捜査本部は設置されていませんでした。
- 殺人事件への発展:平成16年5月以降、取調べ担当となった滋賀県警のH警察官の捜査により、原告は「本件呼吸器のチューブを故意に抜いた」という自白(本件不利益供述)を開始し、同年7月6日に殺人罪で逮捕されました。
- 有罪確定と服役:大津地方裁判所で懲役12年の判決(本件確定判決)を受け、最高裁まで争うも棄却されて服役することとなり、平成29年(2017年)8月24日に刑期を満了して出所しました。
- 再審開始と無罪の確定:原告が起こした2度目の再審請求(本件二次再審請求)において大阪高裁が再審開始を決定し、最高裁も検察官の特別抗告(本件特別抗告)を棄却しました。大津地裁の再審公判で検察側が新たな有罪立証を断念したため、令和2年(2020年)3月31日に無罪判決が言い渡され、検察官の上訴権放棄により無罪が確定しました。
これを受け、原告は刑事補償金として約5997万円(5997万5000円)の交付を受けましたが、それに加えて警察と検察の違法な捜査・起訴の責任を問うために起こしたのが、本件国家賠償請求訴訟です。
【時系列表】事件発生から虚偽自白の形成、再審無罪・国賠判決まで
| 時期・年月日 | 事件の事実関係(警察・検察・原告の動き) | 裁判所の事実認定・法的評価(違法性の要点) |
| 平成14年10月〜 平成15年5月 | ・患者A氏(当時72歳)が本件病院(医療法人C病院)に入院。植物状態で人工呼吸器(本件呼吸器)を装着されていた。 | (※事件前の前提事実) |
| 平成15年5月21日夜〜 5月22日早朝 (本件異常発見・死亡) | ・当直はD看護師、E看護師、看護助手の原告(当時23歳・昭和54年12月生)の3名。 ・午前4時30分頃、心肺停止状態のA氏が発見され、午前7時31分に死亡が確認された(本事件)。 ・当初は**「医療過誤(業務上過失致死)」**の嫌疑で捜査が始まり、殺人事件の捜査本部は設置されていなかった。 | ・当直のD看護師や原告は、初期の任意の取調べにおいて「発見時にアラームは鳴っていなかった」と一致して供述していた。 |
| 平成15年6月9日〜 平成16年3月2日 (解剖鑑定とH報告書) | ・G教授が解剖鑑定書(G鑑定書)を作成し、「人工呼吸器の停止、管の外れ等に基づく酸素供給欠乏が一義的原因」と判断。 ・捜査に加わった滋賀県警のH警察官が、G教授からの聴取を基に**「H報告書(犯罪捜査報告書)」**を作成。 | 【警察の重要証拠(不送致証拠①)】 ・H報告書には「管の外れのほか、管内での痰の詰まりにより酸素供給低下状態で心臓停止したことも十分に考えられる」と、殺人を否定し得る見解が明記されていた。 |
| 平成16年5月10日〜 6月下旬 (取調べ担当の交代) | ・原告の取調べ担当がH警察官に交代(以降すべてH警察官が担当)。 ・原告は呼出しがないのに警察署に出頭したり、自殺未遂を装って訪れるなど不安定な行動をとり始める。 | ・原告に軽度の知的障害・発達障害等があったことや連日の取調べによる異常な精神状態が重なり、H警察官に信頼や一定の好感情を寄せるようになっていた。 |
| 平成16年7月2日 (本件不利益供述と 本件供述書の作成) | ・原告が「本件呼吸器のチューブを故意に抜いた」という自白(本件不利益供述)を開始。 ・同時に、荒っぽく布団をめくったら管が外れたという過失を主張する**「本件供述書」**も作成した。 | 【警察の違法行為①:証拠隠しと選別】 ・H警察官は、自白の供述書だけに**「訂正印」を押させ、自発的な自白を偽装した。 ・さらに、過失を主張する「本件供述書」と前述の「H報告書」を検察官に送致せず隠蔽(違法な不送致)**した。 |
| 平成16年7月6日〜 7月25日 (逮捕・勾留と 強烈な供述誘導) | ・7月6日に殺人罪で原告を逮捕・勾留。 ・初回接見で弁護人に否認を伝えたが、H警察官は「両親は弁護士を信用していない」「そんな弁護士は信用するな」等と述べ自白へ引き戻した。 ・警察の検証(7/14)に合わせ、原告は**「消音状態維持機能」**を使ってアラームを消し続けたと供述を変遷させた。 | 【警察の違法行為②:違法な取調べ】 ・看護師すら知らない「消音状態維持機能」の供述は、警察による不当な誘導・秘密の暴露の捏造と断定。 ・弁護人への信頼を壊し自白を維持させた行為や、過剰な連日の取調べを**「国賠法上、違法」**と認定。 |
| 平成16年7月27日〜 平成16年8月以降 (公訴提起と 起訴後の違法捜査) | ・大津地検のI検察官が原告を殺人罪で起訴(本件起訴)。 ・H警察官は起訴後も「余罪の取調べ」や「心情安定」を名目に長時間の面談を繰り返し、公判での否認を防ごうと干渉した。 | 【検察の起訴は「適法」と判断】 ・警察が不利な証拠(H報告書等)を隠していたため、当時の資料では検察官が原告の虚偽自白や知的障害を見抜くことは困難だったとして、**起訴自体は合法(免責)**とされた。 |
| 平成17年11月29日〜 平成19年5月21日 (有罪判決の確定と服役) | ・大津地裁で懲役12年の有罪判決(本件確定判決)。 ・大阪高裁、最高裁でも上訴が棄却され有罪が確定。L刑務所にて服役することとなった。 | ・確定判決は、G鑑定書と「任意性・信用性がある」と判断された原告の自白を核として有罪を認定していた。 |
| 平成24年9月28日〜 平成31年3月18日 (2度目の再審請求と 検察の特別抗告) | ・原告が2度目の再審請求(本件二次再審請求)を申し立て、平成29年12月20日に大阪高裁が再審開始決定を出した。 ・検察官がこれに対し最高裁へ**「特別抗告」**を申し立てたが、平成31年3月18日に棄却され再審開始が確定した。 | 【検察の特別抗告も「適法」と判断】 ・再審開始決定に対し検察官が特別抗告を行うこと自体は刑事訴訟法上許容されており、違法とはいえないと判断された。 |
| 平成29年8月24日 (刑期満了・釈放) | ・再審請求の審理中、原告は刑期を満了してL刑務所を出所(逮捕からの身柄拘束期間:4,798日・約13年1か月)。 | (※出所後、再審無罪へ) |
| 令和2年3月31日〜 令和2年4月 (再審無罪の確定と 刑事補償金の交付) | ・大津地裁での再審公判で検察側が新たな有罪立証を断念し、「無罪判決」が言い渡され確定した。 ・原告に対し、刑事補償法に基づく補償金として5,997万5,000円が交付された。 | ・無罪確定後、原告は警察(滋賀県)と検察(国)の違法捜査等を理由に約5,464万円の国家賠償請求訴訟を提起。 |
| 【裁判所の結論】 令和7年7月17日 大津地裁判決 | ・滋賀県警の違法捜査と証拠不送致の責任を明確に認定。 ・滋賀県に対し、原告へ3,131万4,841円(+年5%の遅延損害金)の支払いを命じた。 ・※国(検察)に対する請求はいずれも棄却。 | 【損害賠償額の内訳(3,131万円)】 ・拘束中の損害は刑事補償金で相殺(ゼロ円)。 ・認められたのは①出所後の逸失利益(約2,147万円)、②出所後の慰謝料(500万円)、③民事再審等の弁護士費用(約485万円)。 |
【争点表】原告と被告の主張の対立
テーマが極めて広範で多岐にわたるため、動画のテロップやブログの図解表として見やすいよう、①「警察の捜査・不送致(被告滋賀県)」、②「検察の起訴・指揮・特別抗告(被告国)」、③「損害賠償と刑事補償金の相殺」の3つのテーマに分けて表を作成しています。
- 滋賀県に対して、警察の違法捜査を理由に損害賠償請求
- 国に対して、検察の起訴が違法であることを理由に損害賠償請求
【図解表1】警察の捜査(被告滋賀県)をめぐる主張対比表
警察の取調べや、重要な証拠を検察官に送致しなかった行為について、原告と被告滋賀県は真っ向から対立しました。
| 争点(論点) | 原告(元看護助手)の主張 | 被告滋賀県(警察)の主張 |
| 1. 取調べの違法性 (供述弱者への誘導・マインドコントロール等) | 【供述弱者と恋愛感情の悪用】 ・原告は軽度の知的障害や発達障害等のある「供述弱者」であり、H警察官は原告が自身に恋愛感情・信頼を抱いていることを認識しながらこれを利用した。 ・弁護人との接見内容を聞き出し、「弁護士や両親の手紙を信用するな」と告げてマインドコントロール下に置いた。 ・看護師すら知らない「消音状態維持機能」を誘導し、虚偽自白を維持させた。 | 【適切な取調べであり適法】 ・大声を出さず誘導とならないよう注意して取り調べており、長時間・厳しい取調べや恋愛感情の利用はしていない。 ・学校の成績等を調査し、知的能力に問題がないことを確認していた。 ・チューブを外した旨の自白は原告が自発的に始めたもので、核心部分は一貫していた。 ・弁護人の活動妨害や接見内容の積極的な聴取は行っていない。 |
| 2. 否認調書の不作成 (自白調書だけの作成) | 【自白を偽装する不当な証拠作成】 ・原告は弁護人と接見後に否認に転じ、アラームを聞いた旨の供述撤回を求めたが、警察は「否認調書」を作成しなかった。 ・自白に沿う証拠だけを作成・収集し、裁判所を誤認させたことは違法である。 | 【否認を拒否したわけではない】 ・原告は一時的に否認しても、H警察官が諭すとすぐに殺害の事実を再び認める状況が繰り返されたため、結果的に自白調書が多く作成されたにすぎない。 |
| 3. 証拠の不送致 (H報告書・本件供述書) | 【無罪を示す重要証拠の意図的隠蔽】 ・死因が「痰詰まり」の可能性を示唆する「H報告書」と、原告の過失を主張する「本件供述書」を意図的に検察へ送致しなかった。 ・自らの見立てに反する証拠を隠して冤罪を生んだ極めて悪質で違法な行為である。 | 【未完成・重複書類の不送致にすぎない】 ・刑訴法246条には送致範囲の明確な定めはない。 ・不正確な内容や未完成・重複・メモ的な書類を送致しなかっただけで、不利だから隠したわけではない。 ・H報告書は上司への報告メモ扱いで不正確なものであり、本件供述書は他の書類と内容が重複していた。 |
| 4. 解剖医への働きかけ (G教授の供述変遷) | 【死因を殺人に絞る不当な働きかけ】 ・G教授が証言で「痰詰まり」の可能性を否定するよう不自然に供述を変遷させたのは、警察による不当な働きかけが原因である。 | 【不当な働きかけは一切ない】 ・G教授は当初から「痰詰まりで心停止したとすると他の所見と合いにくくなる」として可能性を否定しており、働きかけの事実はない。 |
【図解表2】検察の起訴・捜査指揮(被告国)をめぐる主張対比表
「虚偽自白」を見抜けずに起訴した検察官の判断や、再審開始に対する特別抗告が違法かどうかが争われました。
| 争点(論点) | 原告(元看護助手)の主張 | 被告国(検察)の主張 |
| 1. 本件起訴の違法性 (公訴提起の判断) | 【信用性の検討を怠った違法な起訴】 ・目撃者や物証がなく、G鑑定書と自白しかないにもかかわらず、自白の変遷や供述弱者であることの慎重な検討を怠った。 ・「痰詰まり」や「低カリウム血症」の可能性についてG教授や専門家に確認・検討する義務を怠って起訴した。 | 【当時の証拠に基づいた合理的な判断】 ・業務上過失致死の捜査中から自発的に殺人自白が始まり、核心部分は一貫し裏付けもあった。 ・検察官には恋愛感情や知的障害の認識はなく、自白の信用性やG鑑定書を信用した判断は合理的であり適法である。 |
| 2. 警察への是正・監督 (違法取調べと不送致) | 【警察の違法行為を放置・容認】 ・供述調書等から警察の誘導や恋愛感情の利用、接見交通権侵害を認識できたはずであり、是正する法的義務を怠った。 ・警察の未送致証拠(H報告書等)がないか確認・監督する義務を怠った。 | 【認識不可能であり監督義務もない】 ・恋愛感情や違法取調べを認識することは困難であり、是正義務は生じない。 ・検察官と警察は原則協力関係であり、未送致証拠を確認して送致させる法的義務を負うものではない。 |
| 3. 否認調書の不作成 (検察官による調書作成) | 【供述変遷の記録化義務違反】 ・自白が重要部分で変遷していたため、警察に否認調書を作らせず、検察官自らも否認調書を作成しなかったことは違法である。 | 【調書作成は裁量であり義務ではない】 ・供述調書の作成は取調官の裁量に委ねられており、全てを録取する法的義務はない(※実際に7/22には否認内容の調書も作成している)。 |
| 4. 特別抗告の違法性 (再審開始への不服申立) | 【根拠のない違法な不服申立て】 ・認められる見込みがないことを認識しながら、他事件(松橋事件)の申立書をコピペし、漫然と特別抗告を行った権限濫用である。 | 【当時の状況に基づく合理的な抗告】 ・判例違反や手続違背を理由とするもので、当時の訴訟状況を総合勘案すれば合理的な判断過程に基づく適法な抗告である。 |
【図解表3】損害額と「刑事補償金」の相殺をめぐる主張対比表
原告は約5464万円の賠償を求めましたが、すでに国から支払われている「約5998万円の刑事補償金」との関係(損益相殺)が大きな争点となりました。
| 損害項目 | 原告(元看護助手)の主張 | 被告(滋賀県/国)の主張 |
| 1. 身体拘束中の損害 (逮捕〜出所までの13年分) | 【拘束中の逸失利益と慰謝料】 ・拘束中の失われた収入(約2633万円)+拘束の精神的苦痛(5000万円)+違法取調べ等の苦痛(500万円)=合計約8133万円。 ・ここから刑事補償金(5997万5000円)を相殺する。 | 【否認ないし争う】 ・警察・検察の捜査や起訴は適法であり、責任を負わない。 ・(※因果関係や損害額についても全般的に争う姿勢)。 |
| 2. 満期出所後の損害 (社会復帰後〜将来) | 【服役によるキャリア喪失と偏見】 ・殺人犯の汚名やトラウマで出所後も低収入が続く減収分(逸失利益)。 ・出所後の偏見や不安定な状況に対する慰謝料(500万円)。 | 【否認ないし争う】 ・(同上)。 |
| 3. 各種弁護士費用 (再審や本訴訟の費用) | 【冤罪によって生じた弁護士費用】 ・保険会社からの2000万円請求を覆すための「民事再審の弁護士費用(200万円)」+「本訴の弁護士費用(約497万円)」。 | 【否認ないし争う】 ・(同上)。 |
| 【請求合計額】 | 各自 5464万3576円 | 【請求棄却を求める】 |
裁判所のジャッジメント
【滋賀県警の違法性】取調室で「虚偽自白」はこうして作られた!
裁判所は、滋賀県警のH警察官による取調べや、証拠資料を検察官に送致しなかった行為を「国家賠償法1条1項上、違法である」と明確に断定しました。具体的にどのような捜査テクニック(違法行為)があったのか、3つのポイントを解説します。
① 「訂正印」の悪用による自発的自白の偽装
原告が書いた多数の「供述書」を調べると、不思議な法則がありました。自白方向の供述書の訂正箇所には「訂正印」が押されているのに対し、そうではない供述書には訂正印が一切押されていなかったのです。 一般人が供述書を訂正する際に訂正印を押す認識を有しているとは考えにくく、裁判所は「H警察官が、犯行の立証に使える自白の供述書だけを選別して訂正印を押させ、あたかも原告が自発的に供述したかのような外観を作出した」と推認しました。
② 「消音状態維持機能」を利用した強烈な供述誘導
本件の人工呼吸器には、消音ボタンを繰り返し押すことでアラーム音を止め続ける「消音状態維持機能」が搭載されていました。しかし、病院の看護師の誰一人としてこの機能の存在すら知らなかったにもかかわらず、原告の供述は警察が人工呼吸器の「検証」を行った時期に合わせて「仕事をとおして自然と覚えた」「ボタンを押し続けて死ぬのを待った」などと具体化していきました。 裁判所は、看護助手だった原告だけがこの機能を知っているのは不自然極まりないとし、「H警察官による強烈な誘導によって、秘密の暴露(真犯人しか知らない秘密を自白すること)があったかのような外観をでっち上げた」と認定しました。
③ 弁護人や両親への信頼を破壊するマインドコントロール
原告は弁護人と接見した後に一度は「やっていない」と否認に転じましたが、H警察官は原告に対し「両親は弁護士ではなく警察を信用している」「起訴前に来るような弁護士は信用するな」などと述べ、不当な働きかけを行いました。 さらに、警察にとって都合の悪い原告の「否認調書」を作成しなかったり、起訴後にも「余罪捜査」や「心情安定」を名目に原告と長時間の面談を繰り返して自白を維持させようとしたりした行為について、裁判所は「事案の真相を明らかにするという刑事訴訟法の目的に明らかに反し、違法である」と断罪しました。
なぜ警察に不利な証拠を検察官に送致しなかったのか?(証拠の不送致)
本件訴訟のもう一つの重大な争点は、滋賀県警が「H報告書(犯罪捜査報告書)」と、原告の過失を主張する「本件供述書」を、大津地方検察庁に送致しなかったことです。
- H報告書に書かれていた衝撃の内容:H警察官が解剖を担当したG教授から聴取してまとめた報告書には、「事故発生時の状況から、痰の詰まりが原因で急性死に至ったものではないと思われる」としつつも、「管の外れのほか、管内での痰の詰まりにより酸素供給低下状態で心臓停止したことも十分に考えられる」と、死因が殺人(チューブ外し)ではない可能性を示唆する内容が明記されていました。
- 裁判所の判断:警察官は、未完成なメモ書き等を除き、捜査で得た書類を全て検察官に送致する義務があります。裁判所は、仮にこのH報告書や過失の供述書が検察官に送られ、かつ違法な誘導がなければ、検察官は起訴に及ばなかった(=冤罪は防げた)と認定。警察官の主観的な意図(わざと隠したのか、単なる判断ミスか)に関わらず、証拠を送致しなかったこと自体が違法であると判断しました。
【検察の責任が否定された理由】なぜ「起訴」や「特別抗告」は合法となったのか?
滋賀県警の捜査を厳しく批判した裁判所ですが、一方で大津地検の検察官(国)に対する賠償請求はすべて棄却しました。なぜ警察が作った虚偽自白を見抜けずに起訴した検察官が「免責」されるのか、そのリーガル・ロジックを解説します。
起訴の違法性についての判断枠組み
裁判実務上、「再審で無罪になったから」という理由だけで、過去の起訴が自動的に違法になるわけではありません。検察官の公訴提起が違法となるのは、「その起訴をした時点で、検察官の手元にあった証拠資料や通常要求される捜査で得られた証拠を総合勘案して、有罪と認められる嫌疑がなかった場合」に限られます。
本件において検察官(I検察官)の判断が「合法」とされた決定打は以下のとおりです。
- 警察により証拠が選別されていた:前述のとおり、滋賀県警が「H報告書」や過失を主張する供述書を送致しなかったため、検察官の手元にある資料からは「原告が自発的に殺害を自白し、根幹部分について一貫して自白しているように見えてしまった」という客観的状況がありました。
- 恋愛感情や軽度知的障害の認識限界:原告には軽度知的障害や発達障害、愛着障害があり、またH警察官に対して好意(信頼感や恋愛感情)を寄せていたという背景がありました。しかし、医学の専門家ではない検察官が当時の資料や面談からそれを見抜き、「捜査官への好意を理由に人殺しを虚偽自白している」とまで推察するのは困難であったとされました。
また、検察官が再審開始決定に対して最高裁に「特別抗告」を行ったことについても、法令の解釈や判例の射程に関する見解の相違として許容される範囲内であり、検察官の職務上の注意義務違反には当たらないと判断されました。
【損害額の科学】賠償金「約3131万円」×刑事補償金の関係
最後に、裁判所が滋賀県に対して支払いを命じた「3131万4841円」の損害賠償金の計算ロジックと、すでに原告が受け取っている刑事補償金(約5997万円)との関係を解き明かします。
なぜ「13年間の身体拘束分の損害」はゼロ円になったのか?
裁判所は、原告が違法な逮捕・起訴により、平成16年7月の起訴から平成29年8月の満期出所まで約13年1か月にわたり違法な身体拘束を受けたことの損害(拘束中の逸失利益約3737万円+拘束の慰謝料2700万円+自殺未遂等に追い込まれた精神的損害300万円)の合計を「5616万2659円」と算定しました。
しかし、刑事補償法5条3項の「損益相殺(控除)」のルールにより、既に国から交付されていた補償金「5997万5000円」から差し引かれることになります。
- 【計算式】 拘束期間中の損害(約5616万円) − 刑事補償金(約5997万円) = 0円(※残額なし)
つまり、拘束されていた期間自体の損害は、すでに支払われた刑事補償金でカバーされたとみなされたのです。
今回の判決で認められた「約3131万円」の内訳とは?
では、今回滋賀県に支払いが命じられた約3131万円とは何に対する損害なのでしょうか? それは、刑事補償金ではカバーされない「出所後(社会復帰後)の損害」と「民事再審の費用」です。
| 損害項目 | 裁判所が認めた金額 PDF | 認定の理由・ロジック PDF |
| ① 満期出所後の逸失利益 | 2146万8038円 | 長期服役によるキャリア喪失や、「殺人犯」という汚名により就業の機会が奪われたため、出所後から令和11年まで平均賃金と実際の収入額との差額が生じていると認定。 |
| ② 満期出所後の慰謝料 | 500万円 | 出所後も無罪確定まで「懲役12年の殺人犯」として偏見にさらされ、精神的不安定な状態が続いたこと等に対する慰謝料。 |
| ③ 民事再審事件の弁護士費用 | 200万円 | 過去の有罪判決を理由に損害保険会社から2000万円の賠償を命じられた民事判決を、無罪確定後に「民事再審」を提起して覆すために必要となった弁護士費用。 |
| ④ 本訴の弁護士費用 | 284万6803円 | 今回の国家賠償請求訴訟を戦うために必要となった弁護士費用(上記①〜③の損害合計額の1割相当額)。 |
| 【合計】 | 3131万4841円 | ※これらに加え、令和2年4月2日から支払済みまで年5%の遅延損害金(利息)が加算されます。 |
まとめ:本事件が示す刑事実務の教訓
本件訴訟の判決は、捜査機関が「見立て」に沿って証拠を無理やり作り出し、不都合な証拠を検察官に送らないという悪質な取調べや証拠隠しが、いかに悲惨な冤罪を生み出すかを浮き彫りにしました。
現在では取調べの録音・録画(可視化)が法制化されていますが、密室でのマインドコントロールや誘導のリスク、そして証拠開示・送致のあり方については、これからも私たち法律家や市民が厳しく見守り、科学していく必要があります。


